MEMOS

ちょっと書き留めたかったことなど。

『アメリカン・スナイパー』

 実在したアメリカ人狙撃兵の映画。

 アメリカではかなりバッシングも出ているらしい。この映画は、好戦的か、反戦的か。どちらともいえる。そして、それが峻別できないことこそが、良いところなのでは。個人的には、この映画で示されているイデオロギーやプロパガンダ的な要素よりも、現実の人物を、フィクションとして描く仕組みが面白いと思った。

 世の中の人間は「羊、狼、番犬」のどれかだと、主人公の父親は言う。主人公は番犬、つまり、羊(=弱者)を、狼(=悪)から守る者になろうと、SEALSに入隊。戦地へと、4回派遣される。

 イラクへと派遣された彼がまず最初に殺すことになるのは、本来であれば守られるべき羊であるはずの、子供と女性。敵の狼は、倒しても倒しても襲い掛かってくる。敵をthe savagesと主人公は言うけれど、武器を隠し持っていた市民をおとりにしたうえで殺した米兵の去り際の姿には、どちらが狼だろうと思わせるような残忍さがある。敵の狙撃兵ムスタファにも家族がいる。主人公にとっては狼であるところの敵もまた、羊を守る番犬なのだ。本国に戻った主人公は、守っているはずの家族、羊から詰られる。主人公の仲間の兵士たちは、傷つき、なかには死亡する者もいる。彼の目的は次第に、羊を守ることから、仲間の番犬を守ることになっていく。そして、彼は再び戦地に赴くのだ。

 ストーリー上のクライマックスは、主人公にとって最後の戦地となるサドルシティでの、敵の狙撃兵ムスタファとの一騎打ち、そして四方八方を敵兵に囲まれた主人公たちの脱出劇。「銃を置くな」と主人公の父は少年時代の彼に教えた。その彼が、脱出の切迫感のなかで、銃を捨てざるをえなくなる。

 除隊し、番犬としての役目を終えた彼は、羊に戻ることはできない。かといって、彼はもはや番犬でもない。子供にじゃれついた犬に殴り掛かったり、病院で看護婦に怒鳴り散らしたりする彼は、羊を守る番犬の姿からは程遠いものになってしまっている。

 しかし彼は、傷ついた番犬、元兵士のサポートをする、という新たな役目を見出す。主人公は入隊前に荒馬にのるロデオにハマっていた。その彼が、娘と並んで牧草を食む白馬を眺めている。主人公が、牧羊犬として、羊を守る番犬としての、新たな居場所を見つけたかのように見える。しかし、そのとき、彼はサポートしようとしていた元兵士に射殺される。

 ここで映像は、実際のものに切り替わる。主人公の死んだ戦友の葬儀よりもはるかに盛大に、彼の葬儀は執り行われる。

 とても典型的というか、フォーマットに則った、まるでフィクションのような戦争映画。分かりやすいライバル、孤独な英雄、戦地を退いた兵士の悲劇という流れもそうだし、「羊、狼、番犬」という3つの要素が相対化されていくことも、聖書、銃、砂嵐、馬といったモチーフが繰り返し描かれることも。主人公が戦地でかなり好き勝手振る舞っているのも、どこまで実話なんだろう、と思うくらい嘘くさい。そんなだから、ラストの主人公の葬儀のシーンも、戦友の葬儀のシーンとの類似性によって、物語的な説得力を持ってしまう。

 実話だから、物語的な説得力とか、真っ当な起承転結とか、本来はないはずなのに、まるでそういう物語的な力が働いているように見えてしまう。実に不愉快な感じがした。だから、この映画が嫌いというわけではない。あぁこういうのって不愉快なんだなぁ面白いなぁと思った。

 キリスト教的な価値観が、この映画ではかなり強力だなと感じた。「羊」っていう表現や、教会のシーン、戦場での会話、葬儀のシーンといったいたるところで、それを連想させるものが、あからさまに提示されている。それを考えたとき、好戦とか反戦とかいうことよりも、もっと宗教的な観点からの戦争観、人間観というのが、この作品のベースにあるのではないかなと思った。番犬であろうとした主人公も、ただの羊に過ぎなかったのかもしれないっていうね。