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MEMOS

ちょっと書き留めたかったことなど。

木ノ下歌舞伎 『黒塚』

@駒場アゴラ劇場

 感動してしまった。以下、ネタバレご注意。



 歌舞伎っていろいろ特殊な演出上の工夫や特徴がある。それと同時に、物語のなかで人間の本性や心の機微を描き出すものでもある。歌舞伎って、そのバランスだと思う。瞬間的な驚きやインパクトを狙った、歌、踊り、七五調の台詞、大袈裟な身体の動き、見得、早替え、隈取、衣裳etc。そういう分かりやすいところに目が行きがちだけれども、それと同時に、人間の本性や心の機微を描き出す繊細さを両立させるところが、歌舞伎の凄いところ。

 昔の人は、こんな気持ちで歌舞伎を見ていたのかもしれない。いま歌舞伎をみにいくと、筋書であらすじを予習して、演出上のみどころとかもチェックして。初心者は、その筋書に書いてあることを確かめるだけで終わってしまいかねない。でも、いま古典となっている作品が初演だったときや、いまでは当たり前になってしまった演出が初めて披露されたときは、きっとこんな風に、江戸時代の観客はドキドキしていたのではないかしら。

 演出の「歌舞伎らしさ」に濃淡があるのも面白い。すごーく歌舞伎っぽいところと、ちょっと歌舞伎っぽいところが、混在する。

 たとえば、七五調の台詞や、鍵になる人物を演じる役者が様々に演じ分けなければならないこと、舞台の床を踏む音、案内人の引込み、黒子が登場するところ、鬼女が見得を切るシーン、鬼女を退治するときの立ち回りといった部分は、すごく歌舞伎っぽいというか、歌舞伎そのもの。案内人の引込みのところは、すっかり歌舞伎のノリで拍手しそうになって危なかった。

 一方で、一見、歌舞伎っぽくないようにも見えるところも、実は歌舞伎っぽいところがある。現代風の装いをした旅の僧侶は、昔風の装いをした鬼女とのチグハグさによって、歌舞伎の時代考証がわりといい加減なところを思わせるし、鬼女の回想シーンが会話劇一辺倒ではないところが義太夫長唄を思わせるし、ラップとか流行歌に合わせて次々と踊るのは『娘道成寺』のようなわくわく感があるし、殺した女性が「実は」というのも歌舞伎っぽい。

 そして、そういったインパクトのある演出が、鬼女の悲哀を描くことに繋がっている。この点については、かなり親切だなと思った。歌舞伎は、特にいまは通しでやらないことが多いので、事前に予習しないと一幕では絶対に分からない設定とか裏設定っぽいものとかあるけれども、これは一幕できちんと心情が分かるようになっている。

 ただ、この点については、好みの問題なんでしょうけれども、個人的には、やや物足りない部分もあるかなぁ。鬼女になってからの思い入れがほしい。

 主の娘が患ったことを責められた乳母。その病を治すために「胎児の生き胆」を手に入れるべく、人里離れた小屋に長年住みつく。娘とも生き別れ、夫にも逃げられ。ようやく「胎児の生き胆」を手に入れることができると殺した女性が、生き別れの娘だった。彼女は、この世を恨むあまり鬼女となってしまう。そこへ現れた旅の僧侶に「信仰によって、鬼でも成仏できる」と諭され、救われたと思いきや、僧侶に裏切られ、退治されてしまう。

「信仰によって鬼でも成仏できる」と諭す僧侶の俗物ぶりや薄情ぶりと対置されるべきは、鬼女の葛藤。鬼女になってもなお消えない、娘を殺してしまったことへの罪の意識や、救われたいという願い。「月の光」のくだりまでは、完全に鬼女と化す前までは、それがあった。ただ、鬼女になってから、それが薄れてしまったのが残念。歌舞伎的には、鬼女になってから、その葛藤がいよいよ迫ってくるっていうところなのではないかなと。ただ、この点に関しては、つい数日前に仁左衛門の凄いの見たばかりだから、メチャクチャなことを言っている自覚は少なからずあります。

 そこを差し引いても、ものすごく面白い舞台だったし、歌舞伎スピリットを感じた。なにより、いつも歌舞伎を見に行くとまわりが自分の親くらいの年代の人ばかりで寂しかったので、そんなに年の変わらない人たちが、こんなに歌舞伎愛に溢れるお芝居を見せてくださって、一人じゃないんだ!って勇気をもらった。

 次の舞台も絶対みにいこう~。