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ちょっと書き留めたかったことなど。

少年ハリウッド26話&全体の感想

 少年ハリウッド最終話と、全体の感想をば。

 まず、26話について。個人的には念願のライブ回で、とても楽しく見た。赤い箱のクラッカーとか、マジでJINJINのそれぞれの人物のダンスのズレには心意気を感じた。HOLLY TRIPはやたらダンスが上手かったというか揃っていたような印象がある。ぜんハリ曲はぜんハリを、HOLLY TRIPはプロのダンサーの動画を参考にしているのかなぁ。
 本編協力でぜんハリがクレジットされていて、赤箱の前のやりとりとか、マジでJINJINのあとのやりとりとか、自己紹介のちょっとしたやりとりとか、ぜんハリは細部のいろんなところでインスピレーションを与えているんだろうなという感じ。
 ラストのサプライズ動画で、颯以外のメンバーが涙しているのをみて、うっひょーと思った。この辺は後述。

 以下、思ったことを思った順に。ここ数日は修羅場だったので思考回路ぼろぼろけど、許して。

 少ハリは全体としても、すごく面白かった。人はアイドルに生まれるのではない、アイドルになるのだっていう実存主義実存主義もいろいろあるけど、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」って言ったボーヴォワールは、サルトルと同様に実存主義のなかでも無神論実存主義者なのだと思うし、だから「人はアイドルに生まれるのではない、アイドルになるのだ」っていう主張も、無神論実存主義って感じがしますね。

 ただ、ここで面白いのは、少ハリに宗教性があるっていうことだよね。

 私は少ハリを見ていて、『ヨブ記』みたいだな~っていつも思っていました。「少年ハリウッドは社長の言うことが絶対」という規則は、少年ハリウッドにおける唯一神が社長であることを示している。新生ハリウッドの社長なんて、アイドル時代の呼び名が「ゴッド」ですしね。ライブが「クリスマスイブ」に行われていたり、OPが「聖なる旅」だったり。『ヨブ記』では、神に与えられた辛苦によって、ヨブは試されまくる。少ハリでは、ゴッドの与えた試練により、少ハリは試されまくる。

 シャチョウが少ハリに強く求めたのは、一回性。ゴッドは、少ハリに試練を与えることで、パフォーマンスに一回性を与えようとする。だから、メンバーは試練を与えられたことで、アタフタしないといけない。感情を露出して、驚いて、泣いたり、喜んだりしないといけない。

 だから、サプライズ動画のときに颯以外のメンバーが涙を流したのは、アイドルとしては、とても正しい。でも、颯はそれをせずに、確信的な表情を見せて、その一回性を引き受けようとした。その強い意思は、永遠に続く一回性を引き受けようとする、ニーチェのいう「超人」の意思みたい。「永遠に始め続ける」というのは、永劫回帰に通ずるところがあるようにも思う。そう考えると、「神になるか生贄になるか」という颯の問いに対して、颯は、神か生贄か、という二択を超克したように見える。神は死んだのだ。

 ただ、これが単純に無神論実存主義vs一神教的世界観とか、キリスト教的世界観vs神は死んだ、みたいな二項対立じゃないところが、少ハリのムネアツなところで、だから少ハリは面白いと私は思うね。

 私にとって、この作品の主人公はゴッドっていう気がずっとしている。そもそも、『ヨブ記』のヤハウェと違って、少ハリのゴッドは、人間なんだよね。そして、ゴッドは、元は少年ハリウッドのメンバーだった。つまり、彼はヨブの側でもあった。というか、シャチョウはずっとヨブだったのではないか、と思うんだ。彼にとっての神は、アイドル。彼には理想のアイドル像があって、それを実現するために、新生は作られた。そう考えると、新生は、当初、ゴッドが、彼の理想とするアイドル像に対して捧げた生贄だったのではと思えてくる。神に対して捧げたはずの生贄が、自らの信仰を超克していく。このとき、シャチョウはどんな気持ちだったんだろうなぁ。

 先代の社長について語られなかったり、リュウが着ぐるみに入ってた経緯が語られなかったりと、いろいろと語られていない部分がある。そういうモヤモヤが残ることは、渡り鳥コップで、作中で起こった事件が解決しなかったり、シリーズの過去作品で未解決だった事件がいきなり解決したり、というモヤモヤ感で、すでに予告されていた。少ハリプロジェクト全体としても、舞台があったり、小説があったり、アニメがあったり、ぜんハリがあったり、モヤモヤしつつ、いきなり繋がる、みたいなことがあるんだろうなと思う。舞台、みたかったなー。

 今後は小説で続くみたいなので、それもそれで楽しみ。