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MEMOS

ちょっと書き留めたかったことなど。

平田オリザ 『幕が上がる』

 本作において描かれる高校の演劇部において目指されていた演劇が、作中で「静か系」と称される、「静かな演劇」ではない、という点が非常に印象的だった。そして、目指されているのは、もちろん小劇場的な演劇でも、西洋的な翻訳劇でもない。平田オリザという人は、「静かな演劇」の代表格ではあるけれども、少なくとも、この作品においては、それはベストな方法とはされていない。

 この作品では、まず、いじめや進路や家族などの、いかにも高校生的な悩みとか問題をメインに据えた、ドラマチックな作品が槍玉に挙げられる。学生時代に東京で女優をしていた新任の先生は、親との関係をテーマに、ありのままに提示することを部員に求める。これは、平田の『現代口語演劇のために』で示されている現代口語演劇そのものだと思う。しかし、本作では、それをもって良しとはしない。ここでは、現実を舞台にすることが求められている。

 大会に向けて作品を模索するなかで、唐突に、主人公の演劇部部長は『銀河鉄道の夜』を題材にすることを思いつく。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のファンタジックな世界は、平田の、たとえば『東京ノート』のような、私が現代口語演劇だと思って見てきた作品や、それらの作品で描かれようとしていた世界とは、だいぶ違う。

 なんやかんやあって、主人公は、「舞台の方が現実」だ、と気が付く。「舞台の方が現実」というのは、より正確にいえば、自分たちが演劇をしていることが現実なのだ、ということだろう。現実を舞台にする、そして、その現実というのは、自分たちが演劇をしていることだ、ということ。作中では、登場人物が進路や人間関係に悩むといった、いかにも高校生的な場面も描かれる。でも、そういうことはさておき、自分たちが演劇をしていることこそが現実なのだ、と主人公は気が付く。とてもストレートに青春小説。そして、なにをもってして「リアル」とするか、という方向性において、とても現代口語演劇っぽい。

 この、小説本体の現代口語演劇っぽさと、作中劇『銀河鉄道の夜』の現代口語演劇っぽくなさが両立しているところが、この小説の面白いところ。「大人になるというのは、不条理を受け入れること」という主人公の成長は、決して諦念ではない。「一人だけど、一人じゃない」とか、谷川俊太郎の『二十億光年の孤独』の引用によって、不条理は受け入れられ、向き合っていくものとして捉えられる。この辺は、平田の『わかりあえないことから コミュニケーションとは何か』を読むと、とてもよく分かる。

 「不条理」という言葉を演劇と絡めた文脈でみると、どうしても演劇だったらベケットや別役、小説だったらカミュカフカや安部のような書き手を思い出さずにはいられない。ただ、こういった作家の背景にある、絶望のどん底で死ぬしかないみたいな「不条理」と、平田の描く、受け入れて共生していくべき「不条理」というのは、全然トーンが違う。

 ……というようなことを考えながら、諸作品を読み直してみたら、とても楽しいような気がした。