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ちょっと書き留めたかったことなど。

ぜんハリ『渡り鳥コップ シーズン1 第3話』(『渡り鳥コップ』本編の感想編)

ZEN THE HOLLYWOOD (ぜんハリ)『渡り鳥コップ シーズン1 第3話』
4/20-26 @渋谷グランデ

 『渡り鳥コップ』本編の感想。ネタバレはあるけれど、謎解き関係はそんなに触れていません。

 まずは、公演の概要。そして、1月の『エアボーイズ』公演から、この『渡り鳥コップ』公演までの数ヶ月で、彼らがライブやイベントで取り組んできたことが、どのように舞台に反映されていたか。それから、この舞台をみた率直な感想と、『エアボーイズ』および『渡り鳥コップ』という2作品においてテーマになっていることを考察したうえで、再演に向けて何を期待するか。相変わらず好き勝手に書いていきます。

 ぜんハリの1週間連続公演。それぞれの日が、順に、緑、青、オレンジ、黄、赤、紫、ピンクの日になっている。各日、担当カラーのメンバーの写真の入った缶バッチがもらえる他、「アバロン」と呼ばれる本編の最後に流れる曲を、担当カラーのメンバーが歌う。「アバロン」の歌詞は、日替わりになっていて、『少年ハリウッド』2期6話で作中劇として描かれた『渡り鳥コップ 水辺の警察学校編 シーズン8 第6話』に繋がる謎が徐々に明らかになっていく。

 本編上演時間は約90分。その後、それぞれの日の担当カラーのメンバーがセンターを担当する「永遠never ever」、日替わりで1曲、「ZENKAI PLAY」の3曲のライブ。アンコールで、日替わりでもう1曲。最終日は、ライブパートがやや長め。

 私が観に行ったのは、緑、オレンジ、ピンクの3回。ぜんハリの芝居は、今年1月17日の『エアボーイズ』公演以来で、この公演は、私が初めて足を踏み入れたぜんハリ現場でもある。

『エアボーイズ』は、アニメの作中劇をかなり忠実に再現したものであるのに対して、本公演はアニメの作中劇と関連はあるものの、別の場面を描いたものになっている。それから、『エアボーイズ』は、登場人物とメンバーの名前が一致していたのに対して、今回は、それぞれが役を持っていた。その意味では、本公演は『エアボーイズ』に比べて、作品自体が、アニメともぜんハリとも独立した、作品としての世界観を持っている、という印象が強くあった。

 余談だが、『エアボーイズ』公演の感想で、どこまでが台本でどこからがアドリブなのか分からず、グダグダしている、と私が書き残しているのは、この辺の作品の非独立性も大きかったんだろうな、と今になって思う。

 作品自体が独立した世界観を持っているとはいえど、完全に「当て書き」であることは明白だった。三谷幸喜的な(と言うといきなり期待値が上がってしまうけれども)、役者に対する観客のイメージや、グループのなかでの関係性を踏まえたうえで、キャラクターが構築されていた。『エアボーイズ』は、ぜんハリだけのための書き下ろし台本ではなかったので、当て書きの要素は少なかった。それに、当時は、まだ当て書きするのに必要な、各メンバーの特徴に関するコンテクストが観客のあいだで十分に形成されていなかったように思う。(尤も、そう思うのは、私が『エアボーイズ』公演が、初めてのぜんハリ現場だったからかもしれない。)

 ゆえに、本公演で印象的だったのは、メンバーの役回りや関係性といったコンテクストが、かなり強く意識され、メンバー間でも、観客とも、それが共有されている、ということだった。1月以降の各イベント(最強セーラーPLAYやライブ等)で、各メンバーが、それぞれグループ内における自らの立ち位置やキャラクターを模索している様子を見てきたので、それが、ひとつの作品として形になっているのが見られたことに、この数ヶ月の彼らの歩み(そしてそれを共有できるようになった自分のファンとしての歩み)を感じた。

 そのせいか、『エアボーイズ』よりも、自分たちがやっていることに確信を持っているのが伝わってきた。それぞれの台詞を、どのように表現すべきか、観客がそれにどのように反応するか、といったことについて、考えてきたんだろうなと思った。メンバー間での信頼、そして、観客に対する信頼が強くなっているのを感じた。

 メンバー間の信頼というのは、同じ釜の飯を食っている感、とでも言えば良いのだろうか。芝居というのは、ひとつの作品のためにキャストが集められるタイプの作品と、劇団員を基本としていつも同じメンバーで公演をするタイプの作品がある。前者は背景をまったく異にする役者が顔を揃えることによる緊張感が、後者はさまざまな機会に苦楽を共にしたことによる親密感が、芝居に出てくる。ぜんハリの今回の公演には、劇団のような親密感が舞台上にあった。それは、観ていて、とても気持ちの良いものだった。

 観客に対する信頼というのは、公演期間中に、随所で客席の反応を反映した変更点が加えられていたことに、如実に現れていた。

 3月に行われた3日間連続ライブで、コールに関する注意喚起がなされて以降、この1ヶ月の間、ぜんハリが取り組んできたのは、どのようにして観客を巻き込むか、ということだった。それまでは、それぞれの曲を決められた通りに歌って踊ることが、彼らが目指すところだったことは否定できないだろう。あの注意喚起がなされて、彼らが改めて直面したのは、楽しませる、というエンターテイナーとしての根本的な課題だった。コール講座をやってみたり、ライブ中にコールを呼びかけたり、MCのコール&レスポンスを増やしてみたり、自己紹介をマイナーチェンジしてみたり。ひとつひとつの現場で彼らは真摯に観客に語りかけてきた。劇中、フリルがゾヒストに「言いたいことがあるときは、まず相手を信じること」と諭す台詞があったけれども、彼らがしてきたのは、まさに、観客を信じる努力だった。そして、その努力は、観客を楽しませることができると、自分たちを信じる努力でもあったと思う。

 公演期間中、客席の反応をみて加えられた変更点には、観客を楽しませたいという意志、楽しんでくれるはずという期待、楽しませることができるという自信が滲み出ていた。数ヶ月前の彼らだったら、不安を隠しきれなかっただろうなと思うような場面で、しっかりとやり切っていた。

 ここに関しては、まだまだできることがあると思うけれども、公演中の客席の盛り上がりや、公演後のミニライブでの盛り上がりを考えると、その努力は確実に結実しつつある。彼らの努力や信頼に、自分は応えられているだろうかと、ちょっと反省してしまった。「楽しんでいる」ことを表現する努力ができているか反省とか、ちょっと自分でも頭がおかしいと思うんだけれども、ぜんハリ現場は、楽しいという気持ちを表現することを大切にしています。うっかり目が合っちゃったときに、すっごくニコニコするとか、地味な努力、届いていますか、井上くん。と急に名指し。

 閑話休題

 舞台の雰囲気や、取り組み方に関しては、ここ数ヶ月の努力が見られた一方で、演劇としては、かなり未熟な部分が多かった。「アイドルの舞台なので」と言ってしまえば、それまで。ただ、あえて私はそこに突っ込んでいきたい。

 俳優の役割というのは、作家の言葉を正確に伝えること、キャラクターの人となり、そして感情の動きを伝える、ということに尽きる。『渡り鳥コップ』に、それがあったかどうかは、かなり疑問。作家がなぜその言葉を自分たちに言わせているのか、それぞれのキャラクターがどういう人で、何を思い、何を考え、行動しているのか、まだまだ想像できていない。想像しようとしているかすら、あやしい部分もあった。自分の台詞とか動きを、その場の雰囲気で流してしまっている。もしくは、安易な「型」で乗り切ろうとしてしまっている。

 しかし、これは舞台の上にいる人間だけのせいではない。正直、あの脚本だとな……というところではある。何がやりにくいって、起承転結がないこと。けれども、それが『渡り鳥コップ』の「もやもや」の意味するところでもあるので、まぁ難しい。おまけに登場人物7人もいるのに、みんな刑事。自分が台本を読んで、それぞれの登場人物がどのような人間で、どのような感情を持っているのか考えろって言われたら、かなり厳しいなと率直に思う。

 だからといって、俳優が舞台上で「もやもや」してしまってはいけない。起承転結がないからこそ、作品に軸が必要で、その軸はきちんと提供されている。それは、これが「ぜんハリ」の、もっと言えば、「少年ハリウッドプロジェクト」の芝居である、ということだ。以下、『渡り鳥コップ』について、少々考察していきます。

 まずは、『エアボーイズ』を振り返ろう。『エアボーイズ』は、パイロット志望で航空会社に入社したものの、会社の都合でCAに配属されてしまった若者たちを描いた作品だ。彼らは、ままならない現実に不満を抱きつつも、やがて「夢の上書き」をする。

「少年ハリウッド」で『エアボーイズ』が描かれたのは5話。自分たちがアイドルになるとは思ってもいなかったメンバーたちが、シャチョウの元に集い、アイドルとして活動をスタートさせた頃の話だ。アイドル志望ではなかったのにアイドルとして舞台に立ち、舞台に立ってみたら、当初思い描いていたアイドル像とは程遠い状況が続く。そんな彼らの状態は、『エアボーイズ』でCAに配属されてしまった若者たちの姿に、ぴったりと重なる。そのシンクロニシティが、『エアボーイズ』という作品の肝になっている。

 ぜんハリについても、同じことが言える。「少年ハリウッド」のメンバーがそうであったように、『エアボーイズ』で描かれた若者たちがそうであったように、彼らもまた、アイドルとしてままならなさを感じていただろうと思う。昨年夏にぜんハリ版『エアボーイズ』の1週間公演が行われた当時、客席は空席ばかりだったと、最終日の公演で笠井くんが言っていた。1月17日の公演のときは、メジャーデビュー2タイトル合計1万枚という高い壁を前にしながらも、同じCDを何枚も買ってくださいと言うことを躊躇う姿が度々見られた。しかし、1月17日の公演、彼らは会場を満席にすることができた。2タイトル合計で1万枚は無理でも、5タイトル目の発売を待つことなく、4タイトルで1万枚を達成することができた。ままならないなかで、諦めもせず、妥協もせず、「夢の上書き」を続けてきた。

 そこで、この『渡り鳥コップ』である。

『渡り鳥コップ』も、また、ままならない状態に置かれる若者たちが描かれる。警視庁に新設された探偵課への配属を喜んだのも束の間のこと、彼らは囚人のような格好をさせられ、軟禁状態に置かれてしまう。この、ままならなさは、『エアボーイズ』と相通ずるところがある。

 物語の終盤、ボンボン刑事を送り出し、残りの6人は部屋に残ることを選択する。族刑事は「フリルに幸せになる方法を教えてもらった」と言う。その方法とは、「今を幸せだと思うこと」。動けない状態にいるからこそ、動きたいと願う希望。そして想像のなかではどこへでも行けるのに、現実はそうではないという切なさ。その希望と切なさが、明日を夢みるという幸せの原動力になる。それは、まさに、『エアボーイズ』で描かれた「夢の上書き」そのもの。

 とすれば、『渡り鳥コップ』を、ただの謎のバラマキではなく、ひとつの作品として完成させるにあたって、軸になるのは、この「夢の上書き」だろうと思う。

 では、それぞれのキャラクターが、どのようなままならなさを抱え、どのように「夢の上書き」をしていくのか。『エアボーイズ』に比べて、『渡り鳥コップ』は、その有り様がキャラクターによって大きく異なる。

 劇中では描かれない『渡り鳥コップ』シリーズの全体や、本作で描かれている謎とも関連してくるので、その真相が明らかにされていない現在、分からない部分もたくさんある。ただ、今回の公演の内容だけを踏まえると、「夢の上書き」というテーマにおいて、対になってくるのは、族刑事と銭刑事ではないか。

 SWATのようになりたいと大きな夢を語る族刑事。それと対照的に、お払い箱にされてほっとした、と冷めた口調で語る銭刑事。この2人が、最終的に部屋に残るという、同じ選択をする。「今を幸せだと思うこと」というフリル刑事の言葉によって、正反対の認識を持っていた2人が同じ結論に達するに至るまでの感情の動きは、もっと丁寧に捉えてもよいように思う。なにか理由が分かるまで出られないと語る族刑事、外に出たいと思うことで初めて幸せを感じたという銭刑事。

 フリル刑事の言う「今を幸せだと思うこと」と、ボンボン刑事の言う「今が楽しい」ことは、同じことを意味しているのか。「胸がキュウッとする」というゾヒスト刑事あたりから、フリル刑事の「今を幸せだと思うこと」からの流れを引き継いで、短パン刑事が「明日に生かされている」というくだりは、いまひとつ、台詞が腑に落ちていない感があった。

 実は彼らが軟禁状態に置かれているわけではないことを知っている白目刑事は、序盤から中盤にかけては、他のキャラクターと非常に良い距離感を持っている。ただ、終盤はちょっとよく分からない。というのも、彼がまだ重要情報を握っている感があるから。

 というわけで、事件の起承転結だけを考えると謎のヒントのバラマキになってしまいがちな『渡り鳥コップ』を、『エアボーイズ』と同様に、「夢の上書き」の物語、あるいは、ままならなさとの対峙という観点から捉え直したら、ぜんハリとしてのひとつの軸が見えてくるのではないか、というのが私の考えです。

 再演も、なんだかんだ楽しみです。