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MEMOS

ちょっと書き留めたかったことなど。

『百日紅~ Miss HOKUSAI~』

 映画『百日紅』をみてきたので、感想。

 ネタバレ等あり。



 作中、枕絵について、善次郎の絵が、身体を正確に描出しているわけではないけれども、人物が迫ってくるような絵、と評されていたけれども、アニメってそうだよなぁと思った。見えるものを正確に描くのではなく、絵でしか表現できないものがある。この映画はそれを存分に見せてくれた。

 お栄と盲目の妹のやりとりは、鮮やか。冒頭、お栄が妹に持っていた金魚を、妹は見えると言う。2人が出かけた両国橋で聞こえる、いろいろな音。隅田川の水の感触。雪のなか、散歩に出かけると、妹は静かだと言う。並んで床に就くと、主人公が気が付かないカマキリの気配を察知し、蚊帳の上になにかいる、と指摘する。これらのシーンで、お栄は妹に、両国橋の人々の様子、雪景色のなかで咲く椿の赤さ、カマキリのさやいんげんのような美しさを語って聞かせる。盲目であっても、彼女は彼女のやり方で、世界を知覚している。

 視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚は江戸の人々も現代の人々も同じなのに、それらの感覚から得られる情報を基に形成される世界観は大きく異なる。江戸の人々にとって、怪異というのは、現実の一部でもあるかと思えば、そういうわけでもない。たぶん、彼らにとっては、どうでも良かったんだろうな、という気がする。信心深いかと思えば、妙に醒めている。

 吉原の花魁の首が伸びたり。お栄の描いた地獄絵図があまりに巧くて、注文した人の妻が物の怪に苛まれたり。一方で、もっともらしく語られる龍の描き方は唐のお話だったり、北斎があたかも本当にあった話のように語ったのは馬琴の怪異譚だったり。先の地獄絵図の件は、北斎が仏を描き込んで一件落着。陰間茶屋には仏画が飾られている。北斎は妻に捉えられた雀を解放してやったところで功徳にはならない言い、妹は死んだら地獄に堕ちてお地蔵さんに石を積むのが仕事になるのは、そう決まっているから仕方がない、と語る。

 彼らは、白黒決着をつけようとしない。明治以降の近代合理主義に染まる前の江戸の人々にとって、怪異を合理的に説明することは、必要なかったのかもしれない。主人公の妹が死んだとき、突風が北斎の元に萎れた椿の花を運んでくる。それを見た北斎は、一人で来られたじゃないか、と呟く。その感情は、合理主義のなかで生きている現代人の私にも共感できるような気がする。それは、私が完全に合理主義的な人間ではないこと、江戸の人々が当たり前に持っていたグレーゾーンを、わずかながら持っていることを、気づかせてくれる。

 お栄と妹が船に乗り、両国橋の下を通る。船に向かって徐々にカメラが近づいていき、橋の下をぐっと通り、2人が川の水面に手を差し入れる。お栄が妹に、川が海に続いているのだと語ると、川の水面が波打ち、どんどん波は激しくなり、北斎富嶽三十六景の有名な絵図のような荒波になる。実写映画だったら撮れない、ダイナミズムと躍動感のある画面。こういうシーンが、立て続けにどんどん出てくる。終盤のお栄が走るシーンなんて、瞬きするのも惜しい。

 あとで調べたら、ここ凄いなって思ったところ、凄腕アニメーターが担当しているところも多い。担当した方が調べきれていないor情報が出ていないと思われるシーンだと、北斎が善次郎の絵をけなすところの紙のところとか、龍が雲から出てくるところとか、絵図の妖怪がごにょごにょ出てくるところとか、あと、いろんなところ、とにかく面白かった。

 リアリズムだけが、リアルではない。荒唐無稽な表現なはずなのに、絵が残像で動いているように見えるだけなのに、生が吹き込まれたように感じられる。行ったことのない世界を、あたかも現実のように感じることができる。そういう驚きが、私にとっての、アニメの一番の魅力。

 そんなわけで、私が幸せになるシーンがオンパレードで、しかもそれが江戸の絵師の豊かな感性と結びついて、とにかく観ていて幸せな気分になった。