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MEMOS

ちょっと書き留めたかったことなど。

『地獄のオルフェウス』

5/14 マチネ
Bunkamuraシアターコクーン

 テネシー・ウィリアムズの脚本『地獄のオルフェウス』。主人公レイディに大竹しのぶ、相手役ヴァルに三浦春馬

 三浦春馬の演じる青年ヴァル、登場時とラストとでの印象が、ガラッと変わっていたのが面白かった。登場シーンでは、「お、三浦春馬が出てきたぞ」っていう感じだったんだけれども、ラストでは「三浦春馬超イケメンだ……」ってな具合に、なかなか虜になっていた。俗っぽいけれども、役者が魅力的に見えることは良いことだ。特に、この作品で三浦春馬は悲劇的な結末を迎える美青年を演じているのだから、幕が下りたとき、彼がよりいっそうイケメンに見えたということは、役が捉えられていたということだろうし、それだけで、この芝居は成功と言いきってしまって良い。

 三浦春馬に関して、唯一もったいなかったのは、主人公レイディとの問答の末、レイディが「愛よ」と答える手前での長台詞。あそこは物語の肝心要の台詞だったのに、やや上滑りになってしまった。ただ、総じて長台詞の多いウィリアムズの脚本を、冗長な印象を与えずに演じきったのは、素晴らしい。

 大竹しのぶはさすがの存在感だった。しかし、原作を読んだ印象だと、個人的には彼女の演じるレイディは品が良すぎるような気がする。

『地獄のオルフェウス』という作品は、南部ゴシックに分類されるのだと思う。南北戦争が終わっても、人種や性別や出身地などによる差別のなくならない、排他的、閉鎖的なアメリカの南部社会を描いた作品。レイディという人物は、イタリア移民で、父親は禁酒法時代にワインを作って殺され、レイディ自身は父親を殺した人物に金で買われて結婚している。つまり、彼女はイタリア訛りの英語を話すよそ者だ。レイディとその夫は、教会にも行かない。善きクリスチャン、つまり善き市民ではない。とすれば、彼女のことを心良く思っていない近所の女性2人に、蔑まれ、軽くあしらわれるような存在だ。しかし、舞台では、その力関係が、ややマイルドになっている。そこは、なんとなく違和感があった。

 私がそれなりにアメリカの小説を読んでいて、南部ゴシックと呼ばれる作品群について、多少の知識はあったから、そう思うのかもしれない。もしレイディをもっと下品に演じたら、予備知識なしに観た人は、こんな下品な大竹しのぶは見たことないって思うかもしれないっていう配慮があったのかもしれない。

 しかしこの脚本は、描かれた時代や地域に特有の社会問題を描いているのだから、その表出を避けてしまうのは、作品のパワーを削ぐことになる。それをあえてしたのだとすれば、それをしてまで、この作品を上演する意義はどこにあるのか、ということになる。

 ただ、大竹しのぶ三浦春馬というキャスティングありきで、歳の離れた男女の恋愛を描いた作品、三浦春馬という超売出中の若手イケメン俳優の魅力を存分に引き出す作品、という方向性で考えると、これはこれでありなのかなァ。

 というようなことをつらつらと考えていたら、観劇してから10日間も経っていたので、ここらで一区切りつけておく次第。